私の母は、PHP研究所で発刊されている「PHP」の愛読者で、リビングの一角に書物が収納されています。
私もたまに読むことがあります。9月号を何気なくパラパラみていると、目にぐっさりと印象的なお顔が入ってきました。そのお顔は何気に微笑んでいらして廻りの人々を心穏やかにして下さるようなたたずまいをされています。
お名前は「横田南嶺」とおっしゃる、臨済宗円覚寺派管長を45歳の若さで就任された方です。和歌山熊野川のほとり新宮ご出身でいらっしゃいますが、お寺とは無縁の普通のお家出身だそうです。
私は先程も書きましたが、まずお顔にひかれ、文章を読んでいく内に、「人生は、転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がりの連続で、今生きているこの瞬間を精一杯生きればいい」と言うことが書かれていました。
10歳の頃から座禅会に参加されており、お釈迦様により近い所を望まれて今に至っていらっしゃいますが、今にたどり着くまでもいろいろな局面があったそうです。横田さんはこんなことも書いていらっしゃいました。
『「生きる」ことに取り立てて、こうしなければならないとかこんなふうに生きるべきだということを真剣に考えていませんでした。目先のことを熟していくだけで精一杯、基本的に考え方が単純だから何も考えていなくて・・・』と!
もしかして私のような、私に近い人達にメッセージを下さったのかなぁ~と思いました。
【カウンセラー由美子氏の傾聴】
あんりちゃんは、横田南嶺氏のお人柄に魅力を感じ、「人生は、転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がりの連続で、今生きているこの瞬間を精一杯生きればいい」というメッセージに救われた思いだったのでしょう。横田南嶺氏は「私達は見えない慈悲の世界に包まれて生きています。」と言われています。よく私達は「生かされている」と言う言葉を耳にします。生かされているということはある種慈悲の世界に包まれている事とイコールに近いのかなと思います。自分ではどうにもできない定めの人生だから、無力だから失意のどん底を感じ、さりとて精一杯生きていれば救われるのかもしれません。考えれば考える程先が見えなくなりそうです。でも、きっと精一杯生きていると救われるのでしょう。
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